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高木学校通信 第67号(2010年3月25日 発行)

<目次>


2月の月例勉強会報告

崎山比早子

 2月6日の勉強会講師には、被ばく二世であり「原発はごめんだヒロシマ市民の会」代表も勤めておられる、木原省治さんにお願い致しました。「被爆二世としてヒロシマを考える」と題してお話し下さった内容をご自身にお書きいただきましたので、次に紹介致します。

 戦後 65 年になろうとしている今もなお原爆被爆によって身体的、精神的、社会的に計り知れない被害を受け、苦しみを負わされた被爆者の、その身体的な被害に対する保障すら満足になされていないのが日本という国なのだと思い知らされました。被爆者はその苦しい生活の中から自らの尊厳をかけて「集団認定訴訟」を起こし、裁判では勝訴したものの、木原さんのお話のように厚生労働省の役人の認識まで変えることはできていません。放射線被ばくのリスクを計算するときには、原爆被爆者の生涯調査データが必ずといっていいほど引用され、比較されます。「放射線に安全量は存在しない」ということが明らかにされたのは被爆者の調査結果からであり、今や国際的な共通認識となっています。

 お話しの中で特に印象に残った点は、被爆一世が必ずしも原子力発電に対して原爆に反対するような強い関心を持っておられないということでした。考えてみれば理解できなくもないことかもしれませんが・・。被爆二世は、時間的にも精神的にも核から少し離れた位置にいるため、全体的に把握することが可能だと思われます。従って木原さんが活動されているように原発に反対し、世界のヒバクシャと連帯してゆこうという動きがでているのではないかと思われました。

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被爆二世としてヒロシマを考える

広島:木原省治

【自己紹介を兼ねてはじめに】

 僕は、1949年1月生まれの61歳です。両親と姉二人が原爆の被害にあいました。母親が持っていた「被爆者健康手帳」を見ると被爆時の年齢32歳、被爆場所は広島市皆実(みなみ)町、爆心から2.5キロメートルと記載されています。

 母親は、肩から背中にかけて大火傷になったと聞かされました。すぐ上の姉は1946年2月生まれですから、1945年の8月6日は母の胎内にいました。胎内被爆者です。僕は1949年生まれですから、被爆二世ということになります。僕が生まれて4年後に父親が急死しました。それから、母親は3人の子どもを育てあげ、1998年に85歳で生涯を閉じました。胎内被爆をした姉は、5年前に58歳で急死しました。

 僕の現在中心的な活動は、原子力発電に反対するものすが、そのキッカケになったのは1978年に開催された第1回国連軍縮特別総会を前に、大阪の市民グループの人たちが中心に企画したアメリカの平和団体との交流ツアーに参加したことです。約20日間の行程でしたが、そのほとんどがホームステイや教会での宿泊、野宿というものでした。

 核兵器製造工場、再処理工場建設予定地、ネバダ核実験場、原発メーカーのウエスティングハウス社への抗議行動などに参加しました。この旅行の中で、僕に大きな影響を与えたアメリカの活動家の言葉があります。それは「私たちは、8月6日、9日をヒロシマの日、ナガサキの日として、原子力発電所やその関連施設で抗議行動や集会などを行っている」というものでした。この言葉を聞かなかったら、今、このような活動はしていなかったかも知れませんし、こんなに多くの友人を国内外に持つことも無かったかもしれません。

 この年の10月26日に「原発はごめんだヒロシマ市民の会」を結成しました。なんと結成した翌年の3月28日にスリーマイル島原発の大事故が発生したのです。

【被爆者とは】

 日本の被爆者行政の、基本となる法律は1957年(昭和32年)に制定された原爆医療法、1968年(昭和43年)に制定された原爆特別措置法という二つの法律でしたが、1994年(平成6年)にこの法律が一本化されて被爆者援護法が制定されました。 この法律の第1条に、「被爆者とは」の定義がされています。

 1号被爆者、これは直接被爆した人を指します。2号被爆者は被爆から2週間以内に広島市や長崎市の爆心地からおおむね2km以内に入った入市被爆者、3号被爆者は、被爆者の人たちを救護、看護したり死体の処理に従事した人、4号被爆者というのは、1,2、3号被爆者の胎児というように決められています。また、広島では原爆投下後「黒い雨」が降りましたが、この黒い雨が降った地域の人たちを「被爆者とみなし、健康診断の特別措置の対象者」と規定しています。入市被爆者の入市の範囲や、3号被爆者についても広島と長崎では大きな違いがあります。例えば、広島では3号被爆者について、1日に10人を救護・看護した者という基準にしていますが、長崎の場合は2週間に10人を救護・看護した者という基準になっています。今年2月15日、被爆者問題を扱っている厚生労働者は、「救護被爆の基準を緩和する」という新方針を、都道府県に通達する事を決めたようです。

 現在、1号〜4号までの被爆者で「手帳」を持っている人の数は、2009年3月末現在で23万5,569人となっています。僕が被爆者援護法制定運動に関わった頃は、被爆者数は約37万人といわれていましたので、亡くなっていく被爆者が多いことを示しています。また、忘れてはいけないのは手帳を持っていない被爆者の事です。手帳を持たなくても、被爆者であれば被爆者であることは当然の事です。今、手帳を取得したいと思う被爆者は、被爆をしたことを証明する二人の証人が必要とされていますが、65年が経過した現在では、二人の証人を探すということは大変に困難なことです。別に二人の証人がいないと手帳が取得できないということはありません、僕は、以前に被爆手記を書いてもらって手帳の交付を受けたことがあります。「なぜもっと早く手帳を取得しておけば良かったのに」という声があるかも知れませんが、子どもが小さい頃は差別や被爆したことを言いたくないという気持ちから、手帳の取得をためらったという被爆者の話しを何度 か聞いたことがあります。

 被爆者の子どもや孫である被爆二世、三世、今や四世も存在する時代になりましたが、これらの人に対する国の施策は「被爆者である親の不安を取り除くため」ということで、単年度施策で希望する被爆二世に対して健康診断を行なっていますが、異常が見つかっても治療が行なわれるというものではありません。自治体によっては、被爆二世に医療費保障や補助を行っているところもあります。

【認定被爆者裁判での大きな前進】

 被爆が原因になって、現在病気やけがが続いている被爆者を認定被爆者と言いますが、認定被爆者になることは大変に困難でした。その為に、被爆者の人たちは認定を求める裁判を各地の裁判所に提起しました。昨年、その裁判の判決が続いて出されました。札幌、東京、名古屋、広島第一次・第二次、高松、長崎、熊本での認定訴訟に被爆者は概ね勝利しました。

 僕は、厚生労働省にどのような病気が認定されたのかを電話で問いました。できればFAXで送って欲しいとお願いしましたが、FAXは無理だということで、どこの裁判所でどういう病気が認定されたのかを聞き出しました。厚生労働省の担当者は、「札幌地裁、B型肝硬変、慢性C型肝炎」などと、その病名を話しだしましたが、興味深かったのは病名を言った後、「あーこれは勝っています」ということを何度も言っていたことです。「勝っています」というのは、厚生労働省が「勝った」すなわち被爆者側が認定されずに敗訴したことです。やはり厚生労働省は認定被爆者を増やしたくないという「本音」を持ち続けています。しかし、昨年8月6日に当時の麻生総理大臣と日本被団協が確認書を交わして、裁判の判決を尊重するということで合意しました。広島の第一次訴訟や高松高裁で高血圧症や糖尿病の被爆者が認定されたことなどに、厚生労働省の担当者は「無念」の気持ちをあらわにしていました。2009年7月からは、認定に対して積極的に行うとして、範囲や病名が緩和されました。

【世界中のヒバクシャを救うために】

 フランスが1960年にサハラ砂漠で最初の核実験を行って、今年は50年という大きな節目の年を向かえました。昨年12月22日にフランス政府は、「核実験被害者補償法(通称:モラン法)」を制定しました。この法律については、世界中で大きく報道されましたが、補償する病名を明らかにしていないことや、補償する対象者は国が決めるなど問題点もたくさんあります。

 被爆を最初に経験した日本人として、このフランスで制定された法律の中身を充実させるために、連携し協力していくことは私たちの大きな役割だと思います。フランスの核実験被害者は、補償法の制定運動の中でモデルにしたのは、アメリカにおける被曝者への対策です。アメリカには「放射線被曝者退役軍人補償法」があり、戦後に南太平洋やネバダなどで行った核実験の被曝者や、広島、長崎の原爆投下後、両市に進駐した人も原爆投下から翌年の7月1日まで進駐した人も補償の対象にしています。日本の入市期間の2週間という規定よりも非常に長いものです。また、ネバダ核実験場の風下地域に住む人たちにも「放射線被曝者補償法」を制定しています。

 日本の被爆者援護法は前文にも書いてありますが、「被爆者を助ける法律」という色彩が強いものですが、アメリカの場合「合衆国の国家安全保障の犠牲になったことを認める、議会は政府に代わってこれらの人々とその労苦に耐えた家族に対してお詫びする」と明記して国の責任を認め、国家補償であることをはっきりとさせています。

【NPT再検討会議にむけて】

 今年の5月3日から4週間の予定で、NPT(核拡散防止条約)の再検討会議が開催されます。この条約が不平等条約であることは明らかですが、2005年の時のように何も決まらない、大失敗の会議にしてはなりません。今年はオバマ大統領の誕生により、オバマ構想「核なき世界」への後押しをどうするかが課題だと思っています。それにしても、ヒロシマの発言・行動力は低下していないかとの懸念を持っています。

【ヒロシマの役割】

 広島、長崎は科学の最悪のものによって、多くの人たちが殺されました。現在、科学によって殺されるものが氾濫しています。水俣病もそうですし、薬害、劣化ウラン弾被害もしかりです。  僕は、ヒロシマの大きな役割として「科学によって殺されるもの」を検証していかなければならないと思っています。被爆二世は被爆者である親の生き様、そして死に様を見てきました。広島、長崎の被爆者がいなくなったら、その役割が終わるということはありません。100年後もヒロシマの責務を世界に発信していけるように頑張っていきたいと思います。

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2月、アルジェでの世界核実験会議

湯浅欽史

 高木学校の勉強会のために、木原省治さんは丁寧な資料を2本用意されました。1本は自己紹介から始まり NPT 会議で被爆国としての使命まで、別稿に報告されている内容です。もう1本は「上関原発をめぐる歴史」で、なんと、A-4にビッシリ 25 枚 46,000字に及び、1982 年「視察旅行」の開始から2009 年末に1号機設置許可申請するまでの日録でした。

 ここでは、私が強い関心を持った「第2回世界核実験会議:アルジェリア・サハラ砂漠の場合」について、補足しておきます。

 1960.2.13 アルジェリアのレッガンヌでフランス最初の大気圏内核実験が実行されました。アルジェリア戦争(54-62)中で独立は1962 年ですから、まだフランスの植民地(当時の呼び方では “ 海外県”)で「セーヌ川がパリを横切るように、地中海がフランスを横切る」と称され、植民地に反対したフランツ・ファノンやサルトルやらの名前が記憶されています。以後サハラ砂漠で 16 回、ポリネシアのモルロア環礁等で 193 回、合計 210 回行なわれています。今年はその 50 年という節目となり、アルジェリア政府主催による上記の会議が2月 22-23 日に開催されることになりました。第1回は 2005 年に企画されましたが、「フランスのアルジェリア年」に当っていたので自粛され 2007 年に開かれたのでした。

 アルジェリア政府は、日本政府にではなく、ヒロシマの被爆者に正式の招請状を送り、その介護人として木原さんも参加する予定でした。その後いただいた情報によると、招請された被爆者ご本人が体調不良となり、急遽木原さんも不参加となったことは、帰国後の報告を楽しみにしていたので、とても残念に思います。



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