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高木学校通信 第71号(2010年11月25日 発行)

<目次>


高木仁三郎 没後10年のつどい 希望へと歩みつづける

2010年10月9日 主婦会館プラザエフにて

【第1部講演会】
◆金平茂紀:TBSアメリカ総局長「ジャーナリストからみた高木仁三郎」
◆山口幸夫:原子力資料情報室・共同代表「高木仁三郎さんの志したこと」

【第2部スピーチ】
・司会 林洋子:クラムボンの会、高木学校サポートの会キャプテン
・献杯 小木曽美和子:原子力発電に反対する福井県民会議事務局長

マイケル・シュナイダー:
     1997年ライトライブリフッド賞を高木仁三郎と受賞(通訳:中嶋寛)
七澤 潔:NHK放送文化研究所主任研究員
平野良一:元青森県浪岡町町長、長年六ヶ所核燃料サイクル施設反対運動に取り組む
海渡雄一:日弁連事務総長

高木学校寸劇部ウクレレ漫談「医療被ばく やんなっちゃった」

十川治江:工作舎社長『鳥たちの舞うとき』出版
吉川勇一:元べトナムに平和を!市民連合事務局長
坂本 浩:金沢大学名誉教授、東大核研時代の先輩
長沼士朗:宮澤賢治研究会、元NHKプロデューサー

舘野公一:ギターで「語り歌」東大自主講座以来の友人

清水鳩子:元主婦連合会会長、主婦会館理事長
岡本 厚:岩波書店『世界』編集長
木原省治:原発はごめんだ広島市民の会代表
中里英章:七つ森書館社長

参加者 212人(第1部 207/第2部 148)

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高木さん没後10年、高木学校の歩み

崎山比早子

 みなさま今日は、崎山です。よろしくお願いいたします。今日は10周年のつどいに大勢ご参加いただきまして、ありがとうございます。この10年間の高木学校の歩みをご報告し、これからどのような方向に向かいたいのかを述べさせていただきます。

 高木学校は高木さんが『市民科学者として生きる』の中で「命を次の世代につなげてゆく」「希望をつなぐ」場として述べられています。開校当時高木さんのもとに集まった若い方々の多くは徐々に卒業されて、それぞれのところで、市民科学者として活躍されていると思います。現在は、私たち卒業しなかったメンバーと、新たに参加した人で活動を続けています。

 お手元にお配りしましたパンフにグループの紹介がありますのでご覧下さい。これらのグループが中心になって市民講座を軸とし、講座で取りあげるテーマを中心に、月例勉強会を行い、高木学校通信、ウエブサイトで報告や情報発信をしています。また、出前講座も承っております。これは主に医療被ばくについての講演ですが、今年からは寸劇を取り入れた寸劇講座を出前しています。6月からすでに3回出前をしました。自分でいうのも変ですが、どこでも大変好評でしたので、ご関心のある方はどうぞご注文下さい。

 これまでの活動については、パンフにあります“高木学校の軌跡に”沿って説明させていただきます。第7回までの市民講座は、化学物質、リサイクル問題と原子力問題を交互に取りあげていました。2003年の「原子力と環境教育を考える」の講座を契機に「原子力教育を考える会」を立ち上げ、ウエッブサイトを作りました。それが、2005年にアップした「よくわかる原子力」です。ここ2〜3年は、毎日800から900位のアクセスがあります。現在小、中学生を対象にしたキッズページを作っていて、近い内にアップする予定です。

 2004年からの市民講座は一貫して医療被ばく問題を取りあげてきました。そのキッカケになったのが2004年1月に英国の医学雑誌に発表された論文です。この論文の中で、日本の医療被ばくが世界でも突出して多く、そのため年間約1万人ががんになると計算されていました。それが大きく報道され、市民は不安をいだきました。しかし、厚生労働省には医療被ばくを担当する部署がありません。放射線関係の学会や医療界では、患者の不安をなだめようとする姿勢ばかりが目立ち、医療被ばくをどうしたら減らせるかの方法についての議論はほとんどないままでしたし、その状況は6年以上経った今でもあまり変わっていません。

 私たちは、これはおかしいんじゃないか、と考えて、2004年に、お配りした「市民版医療被ばく記録手帳」を50円で販売しはじめました。手帳の狙いは、検査で受ける1回1回の被ばく線量は少しでも、そのリスクは蓄積するので、被ばく線量を記録し、なるべくムダな検査は受けないようにしよう、そしてこの手帳を医師や技師に示すことによって被ばくのリスクを医療関係者にも考えてもらおう、ということです。この手帳は、みなさまのご協力のおかげで、すでに8000部以上販売、配布しました。

 手帳を発行した翌年に『受ける?受けない?エックス線CT検査』を出しました。これは、放医研から発行されている医師向けの本にも放射線をよく知るための参考書として推薦されていますので、安心してお読み下さい。この冊子も沢山の方に助けて頂き、これまでに7600部以上販売しました。

 私たちはなぜ医療被ばくを取りあげているのか。その理由の第一は、医療被ばくが世界一多いにもかかわらず行政や医療機関が何の対策もとらない、ということと、第二には、医療被ばくとエネルギー政策とは密接な関係があると考えるからです。推進側には、少しの放射線にリスクが伴うことを市民が知ることは、原子力エネルギー利用をすすめる上で大きな障害になるという認識があります。したがって、学校では小学生の時から、少しならば放射線は安心、安全ですよ、と教える。医学部の教育でもそうです。ですから、ほとんどの医師は放射線のリスクをよく知りません。だから、平気でどんどん検査をすることになります。

 原子力発電の側面から見れば、事故があってもなくても、放射線被ばくは必然的につきまとってきます。被ばくが危険なのは生物の遺伝子を傷つけるからです。しかし、大部分の人たちはその危険性を知りませんし、知ろうとも思っていないように見えます。それで、どうしたら無関心な人に放射線の話に耳を傾けてもらえるか考えました。レントゲン検査を全く受けたことのない人はほとんどいませんから、医療被ばくのことなら皆さん熱心に聞いてくれます。それで、6年以上に渡って医療被ばくに取り組んできたわけです。

 高木さんは継続は力ではあるけれど、マンネリに陥る危険性をはらむと、述べられています。私たちはこのことに注意しながら、医療被ばく問題から脱原発へというきわめて現実的な希望に向って、高木さんのいわゆる「希望の組織化」を方法論をも含めて試みてゆきたいと思っています。どうぞ、これからも変わらぬご支援をいただきますよう、よろしく願い申しあげます。ありがとうございました。

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医療ヒバクやんなっちゃった節 ☆初公開♪

よしみ家トロみ

 「高木仁三郎没後10年のつどい」で寸劇部初めてのウクレレ漫談風公演でした。この歌は、メロディーは皆さんお馴染みの、牧伸二のやんなっちゃった節・・原曲はモダンハワイアンのTa-Hu-Wa-Hu-Waiという曲で、更に遡ると、Kaua i ka Huahua'i」だそうです。『タフア・フアイ』(英題"Hawaiian War Chant"、ハワイ先住民のポリネシア人の戦意昂揚歌)なんですって。意外ですね。

 当日よしみ姉さんが、かわいいレイ(花輪)をコーディネートして下さったので、ぐっと華やかで、会場の皆さんと踊ったり歌ったり一緒に出来て楽しかったです。林洋子先生の漫才風味の演出指導ありがとうございました。天国の高木先生は見ていてくださったでしょうか。
 医療ヒバクやんなっちゃった☆歌詞です☆ おうちで、職場で、お友達と、皆さんで歌って医療ヒバクの危険性について是非広めてください♪

☆年内、遅くても年始ぐらいには、youtubeでアップしたいです☆
♪寸劇部・公演依頼お待ちしています♪

医療ヒバク やんなっちゃった
作詞:toromi

 念のためCT撮っときましょと
 お医者さん親切いいオトコ♪
 だけどCTはヒバクする
 なんとレントゲンの400倍!
 (えーっ、400倍?!)
 ※あーあんあやんなっちゃった
  あーあんあおどろいた

 がんになる人増えてます
 早期発見 早期治療
 みんなこぞって癌検診
 検査でヒバクが癌の元
 (えーほんまかいな〜)
 ※繰り返し

 検査機械はめちゃくちゃ高い
 もとをとるべと検査を増やす
 せっせ、せっせと稼いだあげく
 医療ヒバクは世界一!
 ※繰り返し


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新しい展開に向けて

山見拓

 高木仁三郎さん没後10年のつどいに参加しました。当日は会場設備を担当していたため、あまりゆっくりと会に参加することはできませんでした。しかし、幸いにもマイクの音量を調整していたこともあり、多く方のスピーチを集中して聞くことができました。

 山口幸夫さんのお話の中に登場した武谷三男さんとの「時計と金槌」論争の話をきくと、岩波新書『市民科学者として生きる』を初めて読んだときのことを思い出してしまいます。私がこの本を読んだのは、2001年の終わりでした。その後、高木学校のことを知り、2002年の市民講座(当時はBコース)に参加するため、奈良から東京まで日帰りで行った日のことは今でもよく覚えています。そのときから、高木学校に関わるようになり、気がつけば8年がたち30歳になりました。これまで、参加者、運営スタッフ、グループでの調査研究、そして寸劇部男優といろんな経験を積むことができました。現在では、高木学校WebSiteでの情報発信など、ふだん関西(現在は京都在住)にいてもできる仕事をやりながら、参加を続けています。

 京都に住むようになって半年が立ちましたが、高い問題意識を持ち、そして生き生きとしている多くの同世代と知り合うことができました。今、彼らといっしょに、関西で新しい活動を展開できないかと準備を進めています。まだどのような形で進むのかまったくわかりませんが、高木仁三郎さんの言う「見る前に跳べ!」方式で、とりあえず、船が出るぞ!と叫んでみます(小声で)。

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ふだん着の仁さん50 没後10年に

高木久仁子

 没後10年はどうする?の声が上がったのは昨年でした。高木学校は2年前に10周年、原子力資料情報室は設立36周年。高木仁三郎市民科学基金は今年で10年目。そんなで高木基金事務局の村上正子さん、菅波完さんが没後10年の準備の裏方を引き受けてくれることになりました。2人とも生前の仁さんを知らないのですから10年の歳月を思わずにはいられません。

 去る者は日々に疎し、で参加者がどれほどか見当がつかず、皮算用のもと会場探しにかかりました。21世紀の日本で浸食されつつある「希望」にこだわり名称は「希望へと歩みつづける」にしました。立食パーティーのため事前申込としたのですが、受付担当の桑原郁子さんから〆切日を過ぎても申込が続々との報が入り、結局200人を超える参加者で、スタッフ一同、配布資料の増刷や急きょ椅子を追加などてんやわんやで嬉しい悲鳴でした。仁さんの悪夢「集会に誰も来ない」が思い出されます。

 会場入口でご参加のみなさんへ挨拶かたがた、次々見える方へ席を探したりで、主催者挨拶の伴英幸さん、崎山比早子さん、河合弘之さんの声はうわの空で、切れ切れに耳に飛び込むばかりでした。

 金平茂紀さんは、スピーチをお願いした時TBSアメリカ総局長でニューヨーク在住だったのですが、「どこにいても何があっても何とかします」と心強い二つ返事で引き受けて下さいました。この9月に帰国、毎週土曜夕方の報道特集を担当することになり、帰国早々アフガニスタンのカブールへ取材、当日も午後から番組の打ち合わせと、仕事の合間をぬっての登場でした。

 一方、2010年春から夏にかけて慶応大学経済学部で“1960年代「いのち」の記憶”と題した高草木光一教授の集中講座が行われましたが、その中で山口幸夫さんが「三里塚と脱原発運動−ぷろじぇの結成と市民科学、高木仁三郎と三里塚」と題して話されると聞き、私は没後10年の折にはぜひそれを、とお願いしました。

 第2部立食パーティーは、持ち時間厳守の林洋子さんの陽気な司会で、小木曽美和子さんの献杯、マイケル・シュナイダーさん、七澤潔さん、平野良一さん、海度雄一さんのスピーチ、しばし歓談後仁さんの写真アルバム上映、高木学校寸劇部のウクレレ漫談、十川治江さん、吉川勇一さん、坂本浩さん、長沼士朗さんの挨拶と進み、館野公一さんのギターと歌を挟んで清水鳩子さん、岡本厚さん、木原省治さんからの挨拶、終わりに中里英章さんから一言。私は、参加者のみなさんにろくにご挨拶もできぬまま、あたふたするばかりでした。岡本さんの「高木仁三郎は死んでいない、いまここにやあと来ても何の不思議もない、表情、しぐさ、志をここにいる皆さんが共有しています」の言葉や「いい会でしたね」との幾人もの方からの声に、私の「没後10年」の心の重しが軽くなる思いでした。

 原子力ルネッサンス、CO2を出さない原子力発電キャンペーンは華やかですが、現実を直視すれば、六ヶ所再処理工場は何年経っても完成不能状態、高速増殖炉もんじゅはオシャカへの道をひた走り、原発輸出は核拡散への一里塚です。今こそ歴史を見通す眼力が問われています。

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高木仁三郎没後10年のつどい スピーチ

マイケル・シュナイダー

 我が友高木仁三郎が逝去した後、私は彼の記念に樹を植えることにしました。2001年夏、カナダ、オタワの西2時間ほどの所にある私の山小屋近くの森で小さな一本のオーク(樫の木)を見つけました。オークはその辺には稀です。育てば遠くからも見渡せる開けた場所に移植しましたが、最初の数年は苗木にとっては大変でした。大樹に守られることもなく、夏の太陽に焼かれ、冬の寒さに凍り、強風で折れそうになったり、鹿にかじられたりで若木は無傷ではいられませんでした。しかし、若木は生き延びました。そして前よりずっと力強く育っています。オークは、ゆっくり育つために木質が密に強くなります。

 ジンさんの記念樹が奮闘しながら育ったこの10年間に他所では何が起こったのでしょうか? 2001年9.11攻撃を根拠に、多くの運動の自由、すべての民主的権利に対する強い規制が正当化されました。熱帯雨林はこれまでになく減少し、魚の乱獲は急速に進んでいます。最近の研究では、世界の海でプランクトンの40%が失われたと推定されます。貧富の差は拡がりました。最も富める国でも、多数の貧しい人々が暖房や冷房ができずに死に、最も貧しい国々では数百万の人々がいまだ飢えており、数千万の人々が気候変動によって引き起こされた異常気象に脅かされています。

 一方、原子力についてはどうでしょうか? 私とジンさんが共に懸念していた問題、日本のプルトニウム産業を例にとってみましょう。重大な事故で15年間停止した後再び動き出した高速増殖炉もんじゅ(石器時代のテクノロジー);私たちがMOX燃料の軽水炉利用の社会的影響に関する包括的評価を行なった、IMAプロジェクトが完了した12年後に日本で初めてMOX燃料が装荷され、私たちが阻もうとしたいわゆるプルサーマル計画が進行中;六ヶ所再処理工場は操業を開始し−というよりは終わりなき操業開始段階にいます。

 プルトニウム社会の技術・経済・安全・安全保障・環境面での議論では私たちは勝ちました。議論では勝ちましたが、実際には負けました。このようなことは何度も繰り返えされています。もし正当な事実と議論が正しい決定へとつながらないのならば、意思決定プロセスのどこかに誤りがあり、民主主義のどこかに誤りがあるのです。

オーク  ジンさんが亡くなって10年、私たちはプルトニウム、核、エネルギー問題さえも超えて熟考する必要があると思います。

 ・どのように活動するか?
 ・何に焦点をあてるのか?
 ・どのようにゲームのルールを変えられるのか?

 残念なことに、私たちにはオークのようにじっくり時間をかけ成長し強靭になる余裕はありません。人類ははじめて時間のプレッシャー下に置かれています。私たちは早急に、深く行動する必要があります。新しい道具、新しい民主的ルール、メカニズムを開発し使用する必要があります。これは高木さんに最もいて欲しい分野です。私たちが早急にこの方向に向けて共に行動しなければ、ジンさんの記念樹、高く成長したオークが私の孫やひ孫たちに平和な木陰を提供できるチャンスはない、と私は確信します。



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