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高木学校通信 第82号(2012年9月27日 発行)

<目次>


2012年・夏の学校「開催しました!」

プログラム担当 山田千絵

 2012年・夏の学校は、8月25日(土)から26日(日)にかけて、静岡県熱海市内にある芳泉閣にておこないました。「ゆったりしたい」というメンバーの希望に叶う24時間入れる温泉、25日夜の映画『シェーナウの想い』上映会、その後の熱海市の花火大会観覧などが、今回のプログラムの目玉になりました。

 グループ・個人発表では、企画当初の予定以上に、多くの方の発表を伺うことができました。またこれまでの活動のこと、これからの全体での活動の方向について意見を共有しました。また今年は、新メンバー3名の参加を得ました。こうしたことも含め、盛りだくさんの夏の学校となりました。

 これまで夏の学校・校長を置くやり方で運営してきた夏の学校ですが、今年はそれをやめ、各プログラムの責任を担当主任が受け持つ方法で実施し、ひと味違う運営となりました。メンバー一人一人が持ち味を生かし、かつグループ全体に貢献する。そんな訓練の場になったと思います。各プログラム担当主任は次のとおりです。

 1日目 測定(板橋志保)講義・実習:「放射線を測る前に・講義」(山見拓)、「放射線を測ってみよう・実習ツアー」(板橋・山見・千葉優子)「測定値の見方」(板橋・桑垣豊)
 2日目 グループ発表・個人発表(山田千絵)/高木学校の10年を振り返る(山見)・高木学校を「組織」としてどうするか・将来を語る(山田)/市民講座について・意見交換(奥村晶子)/運営会議(千葉)

 1日目の測定実習は、数回の運営会議を経て企画を練り上げました(詳細は報告をご覧ください)。2日目のグループ・個人発表ですが、企画当初のエントリー数をはるかに超えたため、急遽午前中いっぱい時間をかけました(詳細は報告をご覧ください)。高木学校の10年を振り返る企画と、高木学校の将来を語る企画については、時間の制約もあり、事前エントリーをした主に5人のメンバーが発表を行い、議論しました(将来を考える企画は今後も継続します)。市民講座についても、事前にエントリーした3人の発言を受けて、意見交換をしました(詳細は報告をご覧ください。この議論は今後も継続します)。最後は、夏の学校・初参加の千葉さんが運営会議をまとめてくださいました。

 本誌では、誌面の許す限りご報告をしたいと思います。高木学校が持っている多様性、あるいは「1人1人の顔と活動」が、これまで以上に見えるようになっていれば幸いです。

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夏の学校企画『測ってみよう!放射線』 8/25午前・午後

担当:板橋、山見、千葉
(協力:桑垣、田中、瀬川、山田倫)

 今年の夏の学校は、ゆったり→散歩→空間放射線測定と決まった。
 放射線測定会のご要望もあるが、応えられていない。遅ればせながら、測定検討の機会となった。
 目的は、放射線測定の原理・機器の特性の違いなどの知識習得、測定方法の習得、適切な測定条件の検討。高汚染地点の発見ではなく、「測定」が目的。自分が習得するだけでなく、測定会を企画・実行することを想定した練習。

(1)「放射線を測る前に」 担当・山見

 東日本大震災、そして福島原発の事故の後、行政や調査機関のみならず、市民も自ら放射線を測ろうとする動きが広がっています。目に見えない放射線をどのようにして測定するのか、今年の夏の学校では、放射線測定実習を行う前に、放射線測定器の原理について基礎講座を行いました。

 放射線にはα線、β線、γ線など、さまざまな種類があります。ところがこれらは目に見えません。空気中(空間)や土壌にどのくらいの放射能があるのか、また、食品や水がどの程度汚染されているかを確かめるためには、測定器を使って放射線を計測する必要があります。

 放射線はエネルギーを持っています。物質に放射線が当たると、放射線の種類(α、β、γ、X線など)とそのエネルギーの大きさによって、さまざまな現象を引き起こします。これらの現象を電気信号として計測することで放射線が出ているかどうか、また放射線のエネルギーの大きさをを知ることができます。放射線が物質に当たることによって引き起こされる現象として、物質内の電子が飛び出してくる「電離」や「発光(励起(れいき))」、「発熱」などが起こることを説明しました。

 電離作用を利用した検出器として、ガイガーミューラー(GM)計数管、電離箱、ゲルマニウム(Ge)などの固体半導体を利用した固体半導体検出器などがあります。発光作用を利用した検出器をシンチレーションカウンターと呼び、ヨウ化セシウム(CsI)やヨウ化ナトリウム(NaI)の結晶を使ったものなどがあります。当日は、実際の測定器に使用されているガイガーミューラー管やシンチレーションカウンター用のヨウ化セシウム結晶の実物も見てもらいました。

 電離作用や発光作用を利用し、放射線が通過した数を数える(カウント)ことで、放射線がどれだけ飛んでいるのかを知ることができます。その結果は、1分間あたりのカウント数としてcpmという単位などで示されます。また、このカウント数から、測定器に使われている検出器の仕様(コバルト60やセシウム137等の基準線元)に応じた係数を用いることで、1時間あたりの空間線量率(μSv/h)シーベルトなど他の単位へ換算しています。

 ガイガーミューラー管を使った計測では、一定時間内に管の中を通過した放射線の数がわかりますが、放射線の数を数えるだけですので、例えば、β線とγ線のどちらの放射線を数えているのかを区別することはできません。シンチレーションカウンターを使った計測では、結晶が発光した回数だけでなく、発光の強さによって、放射線のエネルギーの大きさまで知ることができます。このシンチレーション方式では、放射線のエネルギーの大きさを測ることにより、測定結果を補正し、より正確な値を示すことができます。これをエネルギー補償機能と言います。このように放射線が通過した数だけではなく、エネルギーの大きさまで細かく計測できる測定器ほど、値は正確となりますが、それだけ高価になります。

 今回は放射線測定器の基本的な原理についてお話しました。安価な測定器も入手できるようになってきましたが、感度や精度はさまざまです。利用目的によって使い分ける必要があります。お手持ちの放射線測定器があれば、取扱説明書をチェックし改めてその仕様を確認してみてください。


(2)「放射線を測ってみよう・測定実習ツアー」

・計器:シンチレーター3台(堀場/ラディ。事務局新規購入の新型も)、
    ガイガーカウンター4台(ラデックス2、SOEKS、上海製)、
    半導体式2台(エステー/エアカウンター)。
・班:各方式1台づつで1組、3班(方式による測定値の違いを見る)。
   計器ごとに測定者、記録者で1班5−6人。
・測定回数:計器ごとに適切な間隔で(30秒、1分)、10回測定。
・測定高さ:地上5cmおよび1m。(5cmは台を用意)
・測定場所:宿の周辺5か所。宿の前、川沿い遊歩道、来宮神社境内2か所、源泉。

 まずは宿の前で練習。坂道を下り、散策しながら計測。計器を持ち、値(と時刻)を読む人、記録用紙に記入する人。最初はぎこちないが、だんだん慣れてきた。ただ、自分の測定で精いっぱいで、他を気にする余裕がない。他との比較が大事なのに残念。
 予定時刻まで測定し、行きと別ルートで帰る。が予定の道を見逃し?、結構高い所に行き、 “迷子”に。無事戻れたものの、遅れた人とはぐれた。団体での移動は、人員の安全の確認が大事、つめが甘いと反省。


(3)測定結果まとめ

 データ入力に時間がかかり、途中で全体終了。ざっとした結果比較は発表(詳細な解析は別の機会に)。参加者の感想意見を聞けず、中途半端に終わったのが残念。
 当日朝、早目に着いた千葉さんと下見。地図と実際は違う。車が通るし、歩道は狭い、暑い。団体行動での安全の確保含め、事前に現場を見ることが重要と痛感。
 反省点はあるが、一同で実際に測ってみたことの意義はあるのではないか。今後の実践に生かしたい。

※なお、この地域で測定したのは、利便性の理由のみ。汚染の問題があるわけではないので、誤解なきよう。

測定の様子


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シンポジウム「福島原発で何が起きたか − 安全神話の崩壊」
2012年8月30日(木)・31日(金)/東京大学駒場キャンパスにて

湯浅欽史

■開催趣旨
 3・11東京電力福島第一原発事故は、未だ進行中です。福島原発から出る放射能は、人々の生活と生態系を脅かし続けています。しかも、事故原因とそのプロセスは、未だ確定されていません。このシンポジウムは、科学的・技術的観点から、現時点で到達し得る福島原発事故の真相に迫ることを目的として企画されました。さらに、この事態を招来した日本の原発政策を検証しようというものです。

 脱原発を求める声は巷に満ちているにもかかわらず、政府は原発の再稼働を急いでいます。福島原発事故の真実を明らかにし、検証の結果を世界に向けて発信することが、科学者・技術者の大きな責任であると考えます。それを通じて、政府や企業に抵抗しうる科学者・技術者の結集をはかり、今後の活動につなげて行きたいと期待しています。

■プログラム
○セッション1 福島第一原発で何が起こったか
 Part1
 ●田中三彦:福島原発事故における地震による機器損傷の真相に迫る
 ●ア−ニー・ガンダーセン:
       福島原発事故から、すべての原子力関係者が学ばなければならないこと
 Part2
 ●石橋克彦:地震列島の原発の必然的帰結としての『福島原発震災』
○セッション2 放射能汚染の現状
 ●今中哲二:福島原発事故による放射能放出と放射能汚染の実像
○セッション3 日本の原子力政策と安全神話の形成
 ●吉岡 斉:福島原発事故の「政策失敗病」としての諸側面
 ●フィリップ・ワイト:原子力「平和」利用と核兵器開発
○セッション4 核をめぐる科学・技術のあり方
 ●高橋哲哉:犠牲のシステムーー責任をめぐるー考察
 ●ミランダ・シュラーズ:ドイツ倫理委員会はどのように脱原発の結論に至ったか
 ●池内 了:原発の反倫理性と科学者の社会的責任
○セッション5 あらためて科学者・技術者の立場から

■経過
 3月末には、共催団体が顔をそろえて企画の枠組みが決まり、実務的な作業が詰められていきました。最大の問題は会場の座席数でした。科学技術者の結集と世界への発信を目的として、当初はコンパクトな250席の会場を準備したのですが、共催・協賛団体関係者の優先予約が始まるとすぐに満席の恐れが生じ、急遽8月10日になって400席の会場に変更したのですが、即日締め切りとせざるを得ませんでした。なお、総経費は約550万円(主催団体拠出330万円)で、参加費は2日間で5000円(学割2000円)とし、学会並みに講演者も実行委員も負担しました。

 第1日目の参加者は約380名、第2日目は約360名、アンケートへの回答者は71名で、主催団体関係者の各3分間決意表明となったセッション5でも席を立つ人はなく、参加者の関心の深さに励まされました。
 このシンポの成果は、11月中旬に岩波の『科学』別冊としてシンポの全過程が刊行されますし、英語キャプション付の映像記録も公開する予定です。ご期待ください。(文責 湯浅欽史)


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低線量放射線のリスク −国会事故調の調査から見えたもの−(その1)

崎山比早子

 昨年12月8日に国会福島第一原子力発電所事故調査委員会(国会事故調)の委員に任命され、約半年間調査活動にたずさわり、7月5日に報告書を国会に提出して解任となった。任務が終わって多くの方々から「ご苦労様でした。大変だったでしょうね」とねぎらいの言葉をいただき、何か申し訳ないような感じにとらわれる。時間的な制約があったとはいえ、自分が分担した事故による被害や、メディアや司法の責任などの分野で明らかにしなければならなかったことの多くをし残してしまったという感じをぬぐえないからだ。

 もともと個人でできることは限られており、多くの協力調査委員のご協力があってまとまった仕事ではある。し残した仕事を完成させるためにはさらに多くの方々のご協力を仰がねばならなかったことは確かであるので、予算的にも時間的にも無理だったのかも知れない。事故はまだ収束にはほど遠いのであるから、明らかにされるべき事項についてはこれからもさらなる検証が必要である。

 事故後、放射性物質による汚染が広がった時期に、枝野官房長官(当時)は「直ちに健康に影響はありません」と太鼓判を押し、久住原子力安全委員は100ミリシーベルト(mSv)では健康には害がないと言い、後に前言を撤回した。福島県放射線健康リスク管理アドバイザーの山下俊一氏も「100ミリシーベルトまでは安全である」と福島県中で講演しまわり、“ミスター100ミリシーベルト“、“ミスター大丈夫”というあだ名が海外でも通用する等、100mSv以下の線量リスクが過小評価され、それは今もなお執拗に繰り返されている。

 このような状況下で市民の立場から低線量放射線リスクを報告書に書き込むことが求められていたのだと思う。それは本来ならば放医研等の研究機関や大学で放射線生物学を専門にし、立派な業績をあげておられる研究者が担うべきものであったはずだ。委員の名前が発表された時に、私の肩書きが“元放射線医学総合研究所主任研究官”となっていたために放医研のさる大先輩から「放医研の名前を使われては困る、君の考えは放医研の考えとは違うので、放医研としては大いに迷惑をしているという声が放医研から自分に寄せられている」、「君は高木学校で放射線のことを勉強したのだから、肩書きは高木学校にしてはどうか」という趣旨の電話を頂いた。確かに私はいつも講演でお話ししているように、放射線生物学を真剣に勉強しだしたのは高木学校のメンバーになってからのことであるので、高木学校という肩書きだけでも良かった。しかし、放医研の主任研究官であったのは虚偽ではないので それを隠す必要も無く“元放医研・・”の肩書きを通した。

 「放医研の考え方とは違う」ということは、放医研の全ての研究者の考え方が一つであるということを前提にした言い方である。しかし、箇々の研究者に考え方の違いがあるのは当然であり、健全であるはずだ。昨年福島で行われた福島国際会議「放射線と健康リスク」で放医研の理事が述べていられたのも、「専門家は一つの声として発信すべきである」そうでないと国民が混乱する、ということであった。国民の不安を楯に取った研究者への強制のように聞こえる。

 このような全体主義的な傾向が何故はびこっているのだろうか? 国会事故調の調査で見えて来た、電力事業者の行政、研究者への働きかけについてこれから何回かに分けて書いてみたいと思う。


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CT検査による白血病、脳腫瘍の罹患率上昇についての論文紹介

崎山比早子

 高木学校で医療被ばく問題を取りあげるキッカケとなったBerrington等の論文はイギリスの医学雑誌The Lancetに2004年に掲載された。医療被ばく線量を上げている最も大きな原因はCT検査でありその乱用が世界的にも大きな問題となっている。

 しかし、これまでその問題を取りあげても、日本の専門家は「CT検査でがんになるという証拠は無い」と調査もしないで答えていた。調査をしなければわかるはずもないことは誰が考えても当然であるにもかかわらずである。しかし、これからはこのような答えは出来なくなるだろう。

 同じThe Lancetの6月号(380, 499-505. 2012)に載ったPearce M.S.等の論文で子どものCT検査によって白血病と脳腫瘍が増加することがきれいに証明されたからだ。しかも統計的に有意であるデータが10mSv以下にもある。「100mSv以下ではがんと関係があるとの明らかな証拠は無い」とも言えなくなるだろう。

右図:CT装置による骨髄および脳の推定線量と白血病および脳腫瘍の相対リスクとの関係を示すグラフ

各図中の斜め点線は、線形の線量応答モデル(mGyあたりの過剰相対リスク)に合わせている。また、各図中の縦の直線は、95%信頼区間を示す。[X線ではmGy=mSv]

上図(A)白血病
横軸:骨髄線量(mGy) 0 10 20 30 40 50 60 70
縦軸:相対リスク 0 1 2 3 4 5 6 7 8

下図(B)脳腫瘍
横軸:脳線量(mGy) 0 50 100 150 200 250 300 350 400
縦軸:相対リスク 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 / 19 20

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 ふだん着の仁さん(61)脱原発法案、国会へ

高木久仁子

 2012年9月7日、脱原発法案が国会議員103名の賛成・賛同で国会へ提出された、というメールが飛び込んできました。詳しくは、“国民的意思である原発ゼロ、再稼働反対の意思を国の政策として実現させるために脱原発法の制定を呼びかけ行動する市民団体”「脱原発法制定全国ネットワーク」のサイトをご覧ください。脱原発法制定全国ネットワーク事務局長の海渡雄一弁護士によれば、「脱原発法制定全国ネットワークが超党派の国会議員に提案を求めていた、遅くとも2020年から25年までの脱原発実現などを定めた「脱原発基本法案」が9月7日午前9時過ぎに衆議院事務総長に、13名の提出者(新党「国民の生活が第一」、社民党、新党きずな、減税日本、新党改革、新党大地・真民主の六会派)によって、23名の提出会派と無所属議員(土肥隆一氏)を含む賛成者を得て提出された。」とあります。

 思い起こすにチェルノブイリ原発事故後の1988年の春、4月23、24日の「原発とめよう1万人行動」のころ、世界で、日本で、原発をとめたい人々の声は大きくなっていきました。イタリアでは国民投票で原発がとまり日本でもと、原発廃止を法律制定によって実現する可能性が議論されました。原子力資料情報室通信第166号(1988年5月30日号)に仁さんは「脱原発法制定を提起する」と題した文章を寄せました。そこには、「この運動を実現するには、まず市民の手で原発廃止のための法案要綱をつくりその法案実現のための市民運動を組織する。そして法案制定を求める全国的な国会請願と署名活動にとりくみ、これを背景に全政党に法律実現に向けて呼びかけを行う。そして賛同する国会議員―脱原発議員連盟ができるとよい―の手で法案を国会に提案し、その成立を目指す。

 法案のおよその骨組みは、@建設中・計画中の原発計画はすべてただちに廃止する A運転中の原発は一定の経過措置の期間内に全面停止し、廃炉とする。危険の少ない廃炉措置のための研究は認める B原発以外の核燃料サイクル施設も全面停止し、廃止する。計画はすべて廃止する C原子力船の開発も中止する D放射性廃棄物については、地下処分、海洋投棄など管理不可能な状態に置くことは絶対に認めず、管理可能な状態で発生者の責任において管理するものとする E政府は原発に依存せず、環境を破壊しないエネルギー政策を責任もって立案すると述べています。

 その後の展開を仁さんは「市民科学者として生きる」に“ついにダウン”の小見出しで書いています。「結果として、この運動は、合計約330万人の署名を集め、第1次第2次の国会請願を、1990年、1991年に行った。しかし、国会では、社会党を中心に一部議員が取り組んだだけに終わり、330万人の署名は全く無視され、議論もされずに門前払いされてしまった。…当時の私たちのやり方の未熟さと時代そのものの未成熟について、考えさせられるところは多い。私としても、この運動の総括をやり切れていないので、何らかの形でいずれ整理しなくてはと思っている。しかし、国会とか国・政治という大きな壁にぶつかってこの運動が挫折したことは否定しようもなく、私は大きな挫折感に襲われた。」チェルノブイリ事故はやはり多くの人々にとって遠い国での事故だったようです。

 けれども福島原発震災の災禍をまえに、大多数の人々が脱原発を願い、原発を即時廃止せよと声をあげ続けています。失敗に終わってしまった1990年代の脱原発法制運動を大きくのりこえ、今度こそは原発にとどめをさすため、脱原発法の実現へ力をあわせようではありませんか。

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サポート丸航海日誌 30年の教員生活を振り返って

羽角章(ブドリ会員 神奈川)

 まだ実感がわかないが、私も来年の3月で定年退職という年齢になってしまった。私が教員に採用されたのが1982年だから、今年で教員生活が30年を過ぎたことになる。ここで、自分がこの30年間に抱えてきた思いを簡単に振り返ってみたいと思う。
 教員になってから、日本の教育は大事なことを欠落させているという感覚をずっと抱えていた。教科書通りに進める授業に納得できなくて、学校の中と外で色々な試行錯誤を繰り返した。

 実は私自身も若い頃は生きる意味を見失い、生きづらさを抱えて苦しんできた。学校では私の苦しさや知りたいという欲求に答えられる授業は行われていなかった。私はたまたま高校紛争、大学紛争、公害反対住民運動と巡り会い、たくさんの真剣に生きる人々と出会うことができ、自分と社会の関わりを学ぶことができた。教員になってからも様々な市民運動と出会い、学ぶことが多かった。その経験から言えることは、日本の社会も学校教育も自分と社会の関係について「あきらめさせる教育」を行っているということだ。

 日本の学校では、生徒を常に受け身の立場に置き、生徒の興味関心と全く関係なく行われる講義型授業が主流で、権威主義的な様々な指導が行われている。基本的な疑問を許さない押しつけがましさを感じるのは私だけだろうか。「隠れたカリキュラム」という概念を当てはめると、生徒達はそういう毎日の授業によって「勉強というものはできあがった知識体系を自分が取り入れることで、それは権威ある先生が与えてくれるものだ」「知識や真実は自分が見つけるものではなく、すでにがっちりとした体系となっていて変えることはできないものだ」ということを学ぶ。

 そして、作文などで生徒の本音を探ると「どうせ社会なんてこんなもの」「どうせ人間なんてこんなもの」という反社会的・反人間的な感覚に驚く。国際調査を行えば、日本の子供たちだけ自尊感情も社会参加度も将来への希望も低いという結果が出るようになった。
 子供たちの心と身体も大きく変わった。いじめや不登校は言うまでもないし、ちょっとしたことで大きなケガをしたり過呼吸になったりする。

 これらの背景にはいろいろな問題が考えられるが、中でも子供たちの遊びの変化が重要だと思っている。自然の中で集団で遊ぶことがほとんどなくなり、ゲーム・マンガなどの引きこもり型の遊びが主流になった。何万年も続いた人類の子供たちの育ち方がこの数十年で変わってしまったのである。

 私は1995年から環境について学ぶ授業を担当するようになったが、私の問題意識はすでに環境問題を通り越して、平和・人権・民主主義・正義などを含めた総合的な市民教育をしたいというところにあった。生徒が体験しながら本質的な問いに出会い、考え、自分を表現し、討論するにはどうしたらいいか、しかもそれに遊びを取り入れて楽しく行うにはどうしたらいいか、模索が続いた。当時はまだ参加型とかワークショップとかいう言葉がない時代だった。教材研究は困難を極めた。
 こうして作り上げた環境市民教育とでも言うべき授業は、幸いなことに現在勤めている川崎高校でも続けられている。私の最後の授業になるかもしれないので、多くの人に見学に来てもらいたいと思っている。

 こうして振り返ると、私は教育を根源的に問い直す作業を私なりにずっと続けてきたのだなと思う。しかし、日本の先生達の意識や学校の教育体制は依然として変わらないままである。私は日本の学校や教育行政という変えることのできない巨大な体制に向かって突進したドン・キホーテのようなものだったが、果たしてドン・キホーテはまわりにどのくらい影響を与えることができただろうか。



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