TOPページ > 高木学校とは

高木学校とは

 原子力資料情報室前代表・故高木仁三郎は1997年12月、プルトニウム利用の危険性を世界に広く知らせた科学的・社会的貢献によりライト・ライブリフッド賞を受賞しました。
 この賞は、平和や人権、環境など人類が今日直面する課題の解決に力を尽くした個人や団体に与えられるもので別名「もう一つのノーベル賞(Alternative Nobel Prize)と呼ばれています。その賞金と多くの方々の支援をもとに、市民の立場から問題に取組むことのできるオルターナティブな科学、「市民科学者」を育成したいという思いをこめて、「高木学校」の創立を呼びかけました。これに応えて全国から多くの人々が集い、1998年に「高木学校」がスタートしました。

「オルターナティブな科学者」とは

●現代社会の直面する環境、核、人権などの問題について、市民が抱く不安や憂慮を共有し、市民の視線でものごとを考えることのできる人
●実際に非政府組織(NGO)などと連携して研究、活動ができる人
●地球市民の時代にふさわしい国際性をもつ人

であると私たちは考えています。


高木学校の紹介パンフレットは下記からダウンロードできます。
高木学校パンフレットver140121(PDF 1.2MB)



高木仁三郎の言葉より

◆科学者が科学者たりうるのは、本来社会がその時代時代で科学という営みに託した期待に応えようとする努力によってであろう。高度に制度化された研究システムの下ではみえにくくなっているが、社会と科学者の間には本来このような暗黙の契約関係が成り立っているとみるべきだ。としたら、科学者達は、まず市民の不安を共有するところから始めるべきだ。そうでなくては、たとえいかに理科教育に工夫を施してみても若者達の“理科離れ”はいっそう進み、社会(市民)の支持を失った科学は活力を失うであろう。
 厳しいことを書いたようだが、私はいまが科学の大きな転換のチャンスであり、市民の不信や不安は、期待の裏返しだから、大きな支持の力に転じうるものだ、と考える。社会と科学の関係は、今後もっと多様化するだろう。科学者と市民が直接手を取り合って、社会的課題に取組むというケースも増えてくるだろう。
 科学のあり方の新しい可能性を切り開く作業への挑戦を、とくに若い科学者やこれから科学を志す人たちに期待したい。
 (岩波書店『科学』1999年3月号「市民の不安を共有する」より)


 ◆実際に世間で考えられているほどには、文科と理科の区別はない。科学にとって必要なのは基本的な飛躍のない理論的な考え方と、数量的なとらえ方である。あらかじめ理解しておくべきことは、そのような基本的な骨組みにすぎない。大事なのは、それらの方法的枠組みをどのような目的で、どのような問題の解析に振り分けるかということだ。
 (『市民の科学をめざして』 朝日選書1999年より)


 ◆高木学校には、いろいろな側面があっていいと思います。僕が希望するのは、お互い大いに厳しく批判しあって欲しいけれども、お互いにマイナスのカップリングにならずに、それぞれ別の方向性がお互いを刺激しあってプラスの方向に作用してほしいということです。そして、今の世の中を少しでも住みやすく、より良くしていくために、科学や技術が役に立つように、市民の立場からみんなが活動するような場であって欲しいのです。
 (第2回「夏の学校」2000年8月 の発言から)

高木仁三郎
故・高木仁三郎

1938年群馬県に生まれる。1961年東京大学理学部卒業、日本原子力事業、東京大学原子核研究所、東京都立大学助教授などを経て、1975年に原子力資料情報室の設立に参加し、87年から98年まで代表を務める。1997年ライト・ライブリフッド賞受賞。1998年高木学校を創設。
2000年10月8日永眠。

▲このページの先頭に戻る
TOPページ > 高木学校とは